言の葉の庭のこと。

新海誠作品で劇場で観たのは前作「星を追う子ども」。2時間を超える尺と上手く解釈できなかったジブリテイストも相まってしっくりこなかった。

でも今回の「言の葉の庭」は全く違った。「秒速5センチメートル」も見ずに今回の作品を解釈するなど言語道断、という方もいそうだが、まあそれはそれとして。

今回の作品を見て一番感じたことは、なんといっても「日本人スタッフが日本を舞台に作るからこそできる映画」であることだ。新海監督が意図した「『万葉集』をモチーフにした雨の映画」など明らかに日本を舞台にしてこそ成立するテーマだ。実際タイトルの「言の葉の庭」も「葉」の字のくさかんむりが実は離れているなどしている。実際に本編で出てきた短歌は、

雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば
 
この対になった短歌はこの作品において非常に重要な意味を持つ。そしてその短歌が詠まれる時の背景にもきちんとこだわりが隠されていた。一度目の鑑賞ではそもそもこの短歌の重要性など全く理解できていなかったが、この短歌の意味を自分自身できちんと解釈すると作品は全く違った色を見せてくる。雪乃がこの歌を詠んだのは単に自分が古典の教師であること以上のものを指示していることだけではなく。
そして作品全体で様々な様子を見せる「雨」の描写について言及しないわけにはいかないだろう。梅雨の季節から物語は始まる。梅雨という日本らしい気候が孝雄と雪乃を引き寄せた。そして梅雨が明けると……季節の移ろいに登場人物たちの心情の移り変わりが反映されている。雨の降り方一つとっても、その場面場面にあった降り方があった。雨粒の大きさ、雨量、そしてどういった角度から雨を画面へ投影するのか。天候に登場人物たちの心理描写を映し出すのはアニメではよく行われていることだが、ここまで雨にこだわった映画は他にはないだろう。

電車の描写にも意図を感じた。孝雄はおそらく中央線沿線の快速の止まらない駅に住んでいる。(雪乃は新宿駅付近と思われる)そして二人とも中央・総武緩行線の電車に乗る描写がある(雪乃は乗っているかは断定できないが)。そして場面転換になぜか中央線快速が中央・総武緩行線を追い抜く描写が何度かある。二人の生き方を投影しているものと想像することも出来る。

そしてフード(ドリンク)演出の数々。そもそもトレーラーでビールにチョコレート、という時点で、これは単なる好みの問題ではなく、明らかに味覚障害だろう、というのは察しが付いていた。しかしそれが先天的なものなのか、後天的なものなのかで話は大きく変わってくる。特に後者であれば味覚障害を引き起こす原因は明らかに外的なものだろうと。物語中盤で雪乃が古典教師であり、学校で厳しい立場に追い込まれていたという事実がはっきりと明かされる。すなわち味覚障害はそういったことに起因する精神的ストレスなどによるものだろうと。

これに限らない。雪乃は孝雄と初めて会った時はチョコレートとビールを口にしていた。しかし時が過ぎ、雨の朝を孝雄と過ごすことにより彼女の精神状態が少しづつ良い方向に向かっていたことがフードとドリンクによって明らかにわかる。途中からスタバのコーヒー(おそらく)へと変化し、更には自分で作った弁当をわざわざ持参するようになる。しかし梅雨が明け、孝雄とほとんど会えなくなってしまっていた8月の末(おそらく)には再びビールとチョコレートを手にしている。どう考えても偶然には思えない。

そして豪雨の新宿御苑から二人が雪乃の自宅へ行くシーン。なぜか温かい飲み物よりも先に孝雄がご飯を作って二人で一緒に食べているのだ。食卓を囲みご飯を食べるという行為は単に二人の仲が進展したことを暗示するだけでなく、雪乃の精神状態もかなり回復してきたことがうかがわれた。

ラストのマンションの階段でのシーンで孝雄がたたみかけるセリフは単に雪乃に向けられたものとは思えなかった。まるで15歳の自分自身から、社会人となり夢など儚いもので現実は想像していたよりも遥かに厳しいものと悟った現在の自分自身へと向けられているかの様な気持ちにさせられてしまった。

なるほどこれは「”愛”よりも昔、“孤悲”のものがたり」なのだ、と3回見てはっきりと理解できた。1回見て全てが把握できる映画だって勿論面白いものはたくさんあるが、やはり複数回の鑑賞に堪え、見るたびになにかしらの発見がある映画というのは長い期間印象に残り、時にはオールタイムベストの一本となっていく。この作品には惜しみの無い拍手を送りたい。そしてこれからも何度も見返すことだろう。